missing matter-sculpture's dogma

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After the future.
2015
Photo by Omata Hidehiko

イリュージョンを彫り刻む

 

 「トリックス・アンド・ヴィジョン(T&V)」と「もの派」。宮原嵩広はこれまで、1968年前後の日本に連続して現れたそれら二つの特徴的な動向に惹かれて制作を行って来たという。かつて習得した特殊メイクの技術も駆使し、石や金属などの硬い素材をシリコンで模した一時期の宮原の作品は、たしかにT&Vを彷彿とさせる。すでに史的な登録は完了したといっていいもの派はさておき、発表そのものを実見した者さえ少なく、ごく限られた論者が語り継ぐ状況から近年にわかに注目を浴びることとなったT&Vが一作家の制作のモチベーションとなること自体に、まずは美術館の功罪を感じざるを得ない(かくいう私自身がその責任の一端を負うのだが)。ともあれ、いわゆるトリック・アートと解されかねないタイトルを持つT&Vがなぜ、どの点においてもの派と接続しているのかは、なお確認しておく必要があるだろう。
そもそもこのT&Vというタイトルは、アメリカのアーティスト、ジョフリー・ヘンドリクスが命名したものであった。中原佑介とともに企画を担った一人である石子順造が用意していた題は「盗まれた眼」。これは石子の用語で、主に絵画を鑑賞するということの制度性を端的に言おうとしたものだ。物質としては絵具とキャンバスの組み合わせに過ぎないものが、絵に見えて「しまう」こと。石子の念頭において、ほぼ生理的に発生するイリュージョンとは世界を対象化してしまう人間の業であり、それを観念化の過程を経る前の眼球の機能が「盗まれた」現象であると呼んでみることで批判を投げかけたのである。
美術作品を取り巻く制度の所在をイリュージョンに定めた点、そしてこの問題をクリアすることで主客二元論から脱却した地平が開かれると考えた構図においてこそ、T&Vは同時代のミニマリズム、そしてもの派と関心を共有することになる。ただしT&Vが特異であったのは、イリュージョン批判をイリュージョンによって行おうとした点である。T&V出品作品群の主だった特徴――[1]メタ絵画(幾何学形態の使用や遠近法の主題化によるイリュージョンの強調、画中画、名画のパロディ)、[2]主観の揺さぶり(蛍光色、ライト、鏡、アクリルなどによる視線の跳ね返し、もしくは奥行への露骨な誘導)――は、いずれ も作品なるものを「見せられている」意識の自覚化を促すものとして集められた。T&V(あるいは石子)は、知覚のフィードバックによって、作品という対象とその場にいる観者の分け隔てを超えた一元論に向かおうとしたのだ。まるで玩具のような作品群はまた、非芸術と直接的につながろうとするものでもあった。時代状況からいえば、当時ほとんど安直に敵視されていた「幻影」なる概念をむしろ好意的に引き入れた所にも意義があるのだが、そのことはひとまず措いておこう。
T&Vの試みは、しかし、結局のところ表面的には錯視効果いじりにひたる、取るに足らない虚実遊戯と映ったのであった。その上で、問題意識を引き継ぎつつ、作品形式において刷新を行ったゆるやかなムーブメントとしてのもの派が台頭することになる。T&Vともの派の様相はまるで異なるが、イリュージョンを介した主客の分断を廃し、作品の内外が切り分けられない場を生み出そうとする一元主義は通底している。ただし、あくまで鑑賞体験という「眼」が主客を分離する(=「作品」を生成する)と捉えた前者のスタンス――ここに石子の批評の一貫した基本姿勢としての受容論が生きる――に対して、制作行為の主体性を限りなく透明化し、「作らない」物体(もの)によって観念以前の場を生み出そうとする後者の志向は、主格を設定するポイントにおいてフェイズが異なっているのである。

 さて、宮原はこの半世紀前の遺産をどのように受け継ぎ、具体化しようとするのか。
今回の初個展は、球体をアスファルトで覆った作品と、そして廃棄された墓石を用いた作品の二部で構成されるという。 美術においてアスファルトといえば、すぐさま東松照明の一連の写真や、桜井孝身を筆頭とする九州派の作品が連想される。あるいはこの物質は、ロバート・スミッソンが愛着を持った対象として記憶されてもいるだろう。自然の地面を隠蔽して近代の生活を支える風景の皮膚であり、常に踏みにじられる下部の象徴。黒々しく不定形で、固まってなお粘液質に見えるこの物質は、一方では熱の痕跡として、また一方では冷ややかな工業社会や都市の記号として使われてきた。だが宮原はアスファルトを、まるで聖性を与えるかのように幾何学的な形態にまとめる。それは下部から上部への単なる価値転倒ではなかろうし、あえて崇めて見せようとするわけでもあるまい。かねてからこの物質に近しさを感じていたという宮原は、かつて、たまたま長靴を置き去りにした田圃がその後アスファルトに覆われてしまったという彼の幼少期の経験を語ってくれた。長靴は今もその下にある、と。彼はアスファルトを、表面の主張でなく、内に何かを飲み込んだ怪物として扱おうとするのである。
そして墓石のシリーズ。素っ気なく四角い墓石は、その形態がまさに示す通り記号そのものであり、あくまであの世の門前のささやかな因(よすが)でしかない。それゆえいったん縁が切れてしまえばあっけなく捨てられてしまうのでもあろう。つまり墓の本体は墓石でなく、不可視である地下に埋もれているはずであるのだが、宮原は漱石の「夢十夜」に登場するあの仏師のエピソードのように、中から形を彫(掘)り出してみせる。あたかもそこに、石自体の魂を見出すかのようにして。
ここで再び石子に話を戻せば、彼が同じ頃に「と」という接続詞に執拗なこだわりを持っていたのも、それが発語される瞬間に断絶を生んでしまうがためであった。たった一文字のひらがなほどの気軽さで、私たちはあちらとこちらを切り分ける。宮原が彫刻を通じてしきりに内面へ内面へと想像力を駆り立てるのは、アスファルト「と」観者を、墓石「と」観者を、あるいは硬質な物質「と」私たちの肉体とを融合しようとする尋常でない欲望ではなかろうか。そのようにして彫刻の内臓が仮想されるとき、T&Vからもの派への展開(転回)は蘇ることができるだろうか。宮原が彫刻の形を借りながら、こちらの視線の表面への埋没を遮り、イリュージョンなる体得的な幻影(亡霊?)にノミを振るっていることだけは、少なくとも確かである。

成相肇(東京ステーションギャラリー学芸員)


 

 

 

 

 

vacillate ghost
2015
Gravestone, etc
variable

 

 

after the futuer
2015
Asphalt, etc
h3000x3000x3000mm h1500x1500x1500mm h750x750x750mm

 

 

 

 

phantom river
2015
Gravestone, stone
h1500x250x250mm